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遊撃的人生録

身の回りの風景を、独自の世界観で。

現実の文脈

 今日のブログは大きな話になりそうな気がします。まだ書ききってないので、何とも言えませんが。

 こんばんは。銀礫です。

 

 現実って、なんだろう。

 そんなことを考えていました。

 

 どうも僕は「現実」という言葉をあまり良く思っていなくて、そのせいでよく言われる現実そのものも嫌になってくる、という悪循環があったわけです。

 ですが、どうも違和感が拭えない。何が違和感なのかもわからない。

 この状況を打破すべく、お風呂でぷかぷか考えていました。

 

 結論から言いますと、現実って、「自分が認識する全て」なのだと考えました。

 息をすることも、オートバイに乗ることも、ご飯を食べて寝て起きることも。

 本などで物語に触れることも、そこから想像の翼を広げることも。

 すべて、「現実」なのではないのでしょうか。

 

 なぜなら、考えてみれば当たり前のことですが、全てそこに実在していますから。

 頬を撫でる風も、あなたのぬくもりも、心を揺さぶる感情も。

 その起点となるものは、全て、自分自身。

 なぜなら、考えてみれば当たり前のことですが、全て自分が行動し、感じているのだから。

 オートバイで走るのも、妄想をするのも、心が恋い焦がれるのも。

 

 そう思うと、「現実」というものが、とても尊いものに思えてきたのです。

 

 だって、この考え方であれば、恋も妄想も読書もアニメも、食事や睡眠と同じものとすることができるから。

 

 ならば、その現実を大切にするには、何が必要なのか。

 

 やっぱり、自分を認めてあげることだと考えました。

 

 先程も書いたとおり、現実の起点は自分です。厳密には、自分自身の認識です。

 ならば、自分を否定することは、すなわち現実を否定すること。現実とはあらゆる自分の認識なので、そんな状態では物語も楽しめそうにありません。

 おそらく、一時のまやかしとでしか、物語を受け止められないのでしょう。俗に言う、物語を消費する、という表現に近いのかもしれません。

 

 物語も、その物語を読む自分がいてこそ、物語となりえるのです。揺さぶられる心がなければ、物語の登場人物も存在しないのです。

 物語はただの虚構で嘘っぱちだと言っているのではありません。物語も、現実の一部だと言いたいのです。

 「故人は今も、私の心に生きている」と言えば素敵に聞こえるのに、「あのキャラクターは今も、私の心に生きている」と言うとイタい子と思われるような矛盾した価値観が僕は大っ嫌いです。

 物語は、もっと、素晴らしいものなのに。

 

 物語世界と現実世界なんて相容れないと言われるかもしれませんが、そんなことはありません。

 僕は、その答えのひとつを、同人誌即売会で感じました。

 物語が人を動かし、コミュニティを形成して、物語世界がより深く、広くなっていく。

 これを物語世界と現実世界の美しい融和と言わずして何と言うのでしょう。

 物語の可能性を、もっと、真摯に認識するべきだと思います。

 

 

 …………少し話がそれました。物語讃歌みたいになってしまいました。

 まあ、最近の(というかずっと)僕の思考の目標が現実と物語の調和でしたから、当然といえば当然なのですが。

 

 話を戻します。「現実」について。

 現実とは、自分自身が認識しうる全て。そして、その現実を大切にするには、その起点である自分を認めてあげることが第一歩。

 

 第一歩、ということは、そこから先はどうするのか。

 どうするんでしょうね。

 たとえば、「生活リズムをしっかりして、健康になる」とかでしょうか。

 これも悪くはないと思います。むしろ大切なことでしょう。

 

 なぜならば、私は地球で生きる人間だから。

 現実を形作る認識の器は、この物質的な身体の中にありますからね。認識を歪めないために、認識を繊細にするために、身体を大切にするという行為は、理にかなっています。

 

 ですが、これはあくまで人間の話。

 たとえば、幽霊とか、そういった身体から離れ、精神のみになった場合はどうでしょう。

 まだ死んだことはありませんので、正確なことは言えませんが、死後、霊体になるなどして、天国に召されるとか、まあ、そんなたぐいの事があったとしましょう。

 おそらく、そこでも自分は何かしらを認識していると思うのです。

 そして、それがまさしく「現実」であると、僕は思います。

 

 ですから、やはり、現実の起点である自分自身を認めること。これが大切なのだと思います。

 ただ、身体というものは認識と深く深く結びついているわけでありまして。その身体のケアなども、人間として生きている限り、必要なことなのでしょうね。

 

 めんどくせえな。死んだほうが楽だろう。

 そう、思うかもしれません。実際僕もそう思っていたこともあります。

 ただ、死にたくはなかったので、こう考えることにしました。

 

 人間、いつかは死にます。霊体になるか転生するかわかりませんが、おそらくこの身体の機能がいつか停止することは確実でしょう。

 ならば、いま、この時代の、この身体でできることを、精一杯感じよう、と。

 死という運命の区切りがあるからこそ、生きてみようと思う。

 いつか死ぬから、いまを一生懸命、何がなんでも詰め込んでやるといった、窮屈な考えではなくてですね、もっと、こう、楽しく、しあわせに。

 そう。この身体で感じられる精一杯のしあわせを掴み取ろうと、思えるのです。

 

 それに、この身体の中と、死後の自分、どっちがいいかなんて、この身体しか知らない自分にはわかりませんからね。

 おそらく、優劣つけられるものではなくて、どちらも素晴らしいものなのでしょう。

 またここで「身体でしか感じられない快楽もあるだろうからそれをいま詰め込んでおかないと…」って思いそうですが、死んだ後もまた身体が手に入るかもしれないじゃないですか。転生とか。

 

 まあ、未来はわからないのです。なのでいまを生きましょう。

 いま、この時空は、いま、ここでしか堪能できないことでしょうから。

 

 重ねていいますが、生き急げということではないのです。それでは心が萎れます。認識が崩れ、現実がよごれてしまいます。

 

 ですから、こう考えます。楽しく生きてみましょう。

 そのために、しあわせを感じてみましょう。

 大丈夫。「現実」は素晴らしいものなのだから。

 そのための第一歩は、自分を認めてあげること。

 

 自分は、現実の文脈に生きているのだから。

 

 これが、今回の結論ですかね。

(※この考え方には、「自分の認識」、言い換えると、「自分の精神」は不滅であるという前提がありますが、この前提は僕の信仰として無条件で信じていることなので、ここでは思考の対象とはしません。おそらく、考えたところでわからないでしょうから。宗教的と言えばそれまでですし、楽観視といえば楽観視ですが。)

 

 

 

 

 

 ちょっと蛇足。

 これらの思考は全て、僕が、いまを大切に生きようとするための思想です。

 言い訳やご都合主義と言われるかもしれませんが、それでいいのです。

 僕自身が信じられるのならば、それは僕の中で真実なのです。

 そのために、これらの思想は、きちんと僕が信じられると思う深さまで、僕なりに突き詰めていったものなのです。

 

 ならば、お前の心の中にしまっていればいいじゃない。

 その通りです。

 

 ですがね。

 

 この真実の発見には、多くの物語や、人と出会うことで深まっていきました。

 

 ブログという形でまとめているのは、そういう経緯があるからです。

 

 僕の思想が、少しでも多くの人の真実を見つける手助けになれば、と思っています。

 本当は、物語の形にして、もっと楽しく語れたらいいのでしょうが……それが僕の目標です。

 

(こういう考え方もまた、ブログを書くことを正当化するためのもの……と、捉えることもできますね。ですが、僕が信じているので、僕の中では真実です。)

 

 こんな、僕の身勝手にお付き合い頂き、そして、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

 

 それでは、また。

 

 次回は「ならば恋の苦しみは排除するべきものなのか?」について考えてみましょうか。(未定)